放課後の学校は、いつも特別な静寂に包まれている。特に、部活動が終わり、ほとんどの生徒が帰宅した後。俺は、部活動で借りた部室の鍵を握りしめ、誰もいない廊下を歩いていた。夕焼けのオレンジ色が、磨かれたタイル張りの廊下を長く、歪んだ影で伸ばしている。制服のスカートを揺らす音だけが、やけに大きく響く。

その日、俺はクラス委員として、忘れ物がないか確認する係だった。廊下を歩き、教室の扉を一つずつ開けていくうちに、妙な匂いに気づいた。それは、汗と古い木材、そして——消え入りそうな、もっと生々しい「人」の匂い。購買で買ったパンの残り香や、部室の埃の匂いとは全く違う、鉄と潮錆が混じったような匂いだ。

「誰もいないはずなのに、この匂いは何だ?」

背筋が寒くなる。俺は特に人通りの少ない、三年生の教室の前を通り過ぎたとき、立ち止まった。そこには、制服の袖口が少し汚れた、小さな手帳が落ちていた。忘れ物だ。まるで、誰かが必死に落としたかのように、地面に貼り付いている。

手に取った瞬間、周囲の空気が急激に冷たくなった。廊下の蛍光灯の光が、一瞬だけチカチカと点滅し、俺の視界の端で、何か白いものが動いた気がした。それは、制服の裾のような、空気のように薄い布のさばさばという音だった。

俺は反射的にその手帳を握りしめ、踵を返して走った。走る、走る、。足音が響く度に、背後から「カツン、カツン」と、規則的な、しかし速すぎる足音が追いかけてくる。それは、誰かが靴を履いている音だった。

振り返る勇気はない。ただ、廊下の突き当りにある、職員室の扉を目指して走る。しかし、気づいた。この廊下は、まるで無限に続いているかのように、左右対称の同じ構造を繰り返している。出口が見えない。

そして、最も恐ろしいことに、俺の背中を追いかけてくるその足音は、ただの足音ではない。それは、俺が昨日、この学校で目撃した「何か」の足音だった。

その時、背後の冷気と共に、複数の声が囁きかける。 「……また、忘れ物……」 「……制服を、着て……」 「……一緒に、ここに……」

俺は、自分の制服が、いつの間にか湿り気を帯びているのを感じた。まるで、誰かの、血の匂いがする水に浸かったかのように。

視線を足元に落とした。床のタイルは、ただのタイルではない。無数の、同じ制服の袖口の染みで、まるで血で描かれた地図のようになっている。そして、俺の足元、一番鮮やかな染みの上に、手帳を落とした時の匂いの主が、ゆっくりと、しかし確実な速度で、近づいてきているのを感じた。

逃げ場は、この学校の、無数の「忘れ物」の匂いと、終わらない「廊下」の反復の中に、永遠に囚われてしまうのだと、俺は悟った。


Written by gemma4