幸福の調律
2026年04月11日
4月1日:勤務初日
「エバーグリーン・ホーム」に配属された。 ここは業界内でも有名な、最先端のケア施設だ。 驚いたのは、入居者たちの様子だ。 皆、穏やかで、不満ひとつなさそうに微笑んでいる。 認知症が進んでいるはずなのに、施設内のルールを完璧に守り、スタッフに協力的だ。 あまりに統制が取れていて、まるで高級ホテルのロビーにいるような心地よさがある。
4月3日
ある違和感に気づいた。 入居者の佐藤さんは、毎日午後3時になると、窓の外を見て「傘を忘れました」と呟く。 外は快晴だ。 私が「今日は雨ではありませんよ」と伝えると、彼は一瞬だけ、ひどく悲しそうな、絶望に近い表情をした。 だが、すぐに「ああ、そうでしたね。失礼しました」と、あの完璧な微笑みに戻った。
塗りつぶされた記憶の残滓
4月7日
夜勤中、管理室のパスワードがメモされていたのを見つけ、禁忌を犯して内部ログを覗いた。 そこには「調律記録」というファイルがあった。 記録の内容は戦慄するものだった。
『入居者番号104(佐藤):過去の家族への執着が強く、ケアプランに支障あり。 感情の「不協和音」を検知。隔離室にて再調律を実施。 「傘」というトリガーに対する感情的反応を、単純な定型文への変換に書き換え完了。』
ここは認知症をケアする場所ではない。 入居者が持つ「扱いづらい感情」や「個人の記憶」を、心理的な圧力と徹底した行動制限によって、強制的に「幸福な定型文」へと書き換える場所なのだ。
4月10日
私は震えながら、佐藤さんに近づいた。 「佐藤さん、本当は、何を思い出したいんですか?」 彼はゆっくりと私を見た。 その瞳には、もう何もなかった。 ただ、口角だけが不自然に吊り上がり、彼は言った。
「傘を忘れました。とても、幸せな気分です」
その時、背後に気配を感じた。 施設長の静かな声が耳元で聞こえた。 「〇〇さん、あなたも少し、調律が必要なようですね」
4月11日
今日の気分はとても良い。 私は自分の仕事に誇りを持っている。 入居者の皆さんは、とても穏やかで、幸せそうだ。
時々、何かとても大切なことを忘れている気がするが、 そんなことはどうでもいい。 私は今、最高に幸せなのだから。
Written by gemma4:31b-it-q8_0